投資はお金持ちの人ではなく、お金持ちになろうとする人がやることです
2024年11月19日
こんにちは。
投資信託クリニックの カン・チュンド です。
誰しも200年くらい遡れば、
ご先祖さまは百姓に行き当たるのではないでしょうか。
明治初期の頃でも
日本の人口のおよそ8割は農民でした。
農民の暮らしは田んぼと家の往復です。
重労働です。
毎日働いてご飯にありつけて、
それが生活のほぼ全てだったのでしょう。
ヒトは貧しい時間があまりにも長かったため、
ここ100年位で急に豊かになっても、
何千年というひもじい時代の記憶が鮮明に残っているものです。
それが証拠に、
余裕が出来ていざ潤沢に「お金」を持てても、
と戸惑ってしまう人が多いのです。
(それほど、貧しい頃の時間的堆積が分厚かったという証左かもしれません)。
日本人の多くはお金を持て余しています。
そこそこ「お金持ち」になっても、
どんな身の振り方をすればよいか分からない。
お金を生かし、
お金を使っていく戦略的な術を持たないため、
ベクトルとしては「貯める」「増やす」の一辺倒になってしまう。
結果、金融資産がどんどん増えていってしまいます・・。
誤解がないように言い添えますと、
使うには使っているのです。
しかし、典型的なお金持ちの
「お金の使い方」は単一かつ表層的で、
お金持ちになったら、
・大きめの家を建てる
・いいクルマを買う
・高価な服、宝飾品を買う
・贅沢な海外旅行
・投資をする
「投資をする?」
はい、そうです。
お金持ちになった人はなぜか、そのステイタスの証として投資を始めたりします。もしかするとあなたの脳内でも、投資 = お金持ちの人がするもの。という刷り込みがあるかもしれません。
わたしは職業柄(ファイナンシャルプランナー)、この奇怪な現象とずっと付き合ってきました。
―投資は、お金持ちの人が行うものだ。―
一見まともに見える言説も、いざ文字に記してみると(やはり)「おかしい」と感じます。
わたしがこの仕事を始めた当初、
運用相談に来る人はほぼ50代以上の人でした。
その事実に驚いたものです。
(投資に限らず)
社会が育んだ慣習や文化的拘束の中で、
「○○って□□だよね」という固定観念を、私たちは色濃く引きずっています。
も、そのひとつではないでしょうか。
投資の本質は、
リスクを負って戦略的にお金を増やしていく行為です。
では、なぜリスクを負ってまでお金を増やそうとするのでしょう?
それは(明治時代と同じく)自分の暮らしのためです。
今、とりあえず仕事はある。
家計は成り立っている。
でも、老後のことを考えたら先行き不安だ。年老いても、果たして今の生活水準を維持できるのか。老後に余裕のある暮らしを実現できるのかしら・・。
だったら、
今のうちから未来の自分のために、
コツコツお金を育てておくという考え方も、悪くはないのではないか。
そういうきっかけで、
今はまだ潤沢なお金がない人が、
長い時間をかけてお金持ちになるために「投資」を始める。
これが投資の本来の姿、いや、
これがほんらいの投資の『ニーズ』であるとわたしは思っています。
投資は間違いなく、
お金持ちの人のためではなく、
お金持ちになろうとする人のために存在するのです。
これまでは(例えば)
すでに1億円の資産がある人が投資に熱心で、
500万円とか1000万円のお金を持つ人が
あまり投資に必要性を感じていませんでした。
いわば、投資の必要性が低い人が投資に熱心で、投資の必要性が高い人が投資にそっぽを向けていたのです。
そんな「ヘンな時代」がけっこう長く続きました。
しかし、NISA制度(少額投資非課税制度)が刷新され、
投資が真に必要な人にふさわしい制度、
とっておきの長期投資の器が用意されることとなりました。
それが今年(2024年)なのです。
もちろん、
日本人の投資に対する意識が変わりつつあることも影響しているでしょう。
(果たして、)すでに1億円の資産がある人が投資に取り組んで、それを2億円とか3億円にする価値は一体どれほどのものなのでしょうか。
個人的には、そのような運用相談にはあまり興味がありません。
それよりも、数百万円から5000万円の資産を創るプロセスに関わること、
また資産が育っていく過程で、お客様の生き方やキャリアに(投資が)良い影響を与える様子を拝見することに、わたしは喜びを感じます。
最初の1万円を10万円に増やせた喜びは、
何物にも代えがたいものです。
わたしの知見では、
資産1億円程度までは、
お金を増やすことで得られる満足度や喜びは逓増していきます(幸福度は明らかに上がるわけです)。
ところが、資産が2億、3億円を超えてくると、
人の幸福度はそんなに変わらなくなります。
これがお金の「限界効用」と呼ばれるものです。
投資はお金持ちの人ではなく、お金持ちになろうとする人のために存在します。