お金の摩訶不思議

マズローの欲求5段階説(お金と幸せの関係)

2024年5月24日

 

こんにちは。
投資信託クリニックの カン・チュンド です。

 

わたしが通っていた小学校では、

毎年、ゴールデンウイークを過ぎたあたりで『家庭訪問』がありました。

先生が生徒の「自宅」までわざわざ訪ねてくれるわけです。

 

 

ですが、わたしの家には「玄関」がありませんでした。

 

 

扉を開けると、
広いコンクリートの土間が広がり、

右手に、ビニールの素材を保管する大きな倉庫(木で作られた)がありました。

 

その手前に「二槽式の洗濯機」があって、
母はいつもそこで洗濯をし、
路地に洗濯物を干していました。

 

家庭訪問があると、
先生はそのコンクリートの土間のところで、母と話をすることになります。

 

それがとても恥ずかしかったのを思い出します。

 

 

私たち家族は「ビニール素材の会社」の二階で暮らしていました。
もともとは社宅だったところです。


三階にはその会社の倉庫があり、時々ネズミが走っていました。

 

家の前の「路地」が舗装されたのはたしか小学5年のときで、それまでは雨が降るとすぐぬかるみになってしまうのでした。

 

 

 

 

 

同じ路地にある友だちの家では外で犬を飼っていました。

(残飯以外の餌を食べている姿を見たことがありません。)

 

わたしの家のまわりは、
裁断工場やミシンの作業所や内職の家が多く、いつも「機械の音」と「ラジオの音」が鳴り響いていました。

典型的な下町です。

 

 

 

 

後年、高校に上がって「銭湯」に行ったことがない同級生がいて驚きました。

 

また、ほとんどの同級生の父親が「大卒」で仰天したのを覚えています(わたしの両親は共に中卒で、それが普通だと思っていたため。)

 

 

 

先ほど、担任の先生が『家庭訪問』に来て、
コンクリートの土間を見られるのが恥ずかしかった。と述べました。

 

が、それは換言すると、

「玄関」がある家に引っ越すだけで
幸せな気分になれる。ということでもあります。

 

 

 

 

 

ところで、わたしは「お金」を扱う専門家なので、
マズローの「欲求5段階説」にとても興味があります。



詰まるところ、
どうして多くの人が利殖や運用に興味を示すかというと、

 

お金が「幸せ」に結びつくと感じているからです。

 

 

 

 

 

人間は「低位の欲求」が満たされてはじめて、
より「高位な欲求」に移っていくもの。

 

マズローはその欲求を『1~5の段階』に分けて説明します。

 

 

第1段階や第2段階の欲求は、

お金うんぬん以前、
「生きる」を続ける根源的な欲求です。

第1段階『生理的欲求』(食べたい・寝たい)から、

 

第2段階の『安全欲求』

即ち安心・安全な暮らし(雨風をしのぐ家や、健康や、最低限のお金を確保)の移行には、言い知れぬ「喜び」があることでしょう。

 

 

実は人類の歴史の99.9%は
『第2段階』に到達するために費やされてきました。
1段階 ⇒ 2段階への 移行欲求 は、太く刻まれた線のように、普遍的かつストレートに(今も)存在します。

 

 

ところが、
第3段階『社会的欲求』に至るとどうでしょう?

 

 

 

 

 

〇 集団に属する
〇 仲間と会話する
〇 コミュニティに帰属している

 

⇒ そのことによって「一定の満足」を得ているという状態は、

 

現在、多くの人がすでに
第1段階、第2段階をクリアしているだけに、
その達成がより難しくなっているのかもしれません。

 

 

第3段階に至れば、
もちろんお金にもある程度「余裕」があることでしょう。

 

では「収入」がどんどん増えると「幸せ感」も逓増を続けるかというと、

これがまたなかなか難しく、

 

一般に「年収800~1000万円」のラインを超えると、
それ以上収入が増えても、
『幸福度』はあまり上がらないのだそう・・。

 

 

 

 

 

さらに今はSNSの時代です。

第4段階の『承認欲求』がクローズアップされます。

 

「他者から認められたい、尊敬されたい、有名になりたい。」というような欲求です。

 

 

 

 

 

むかしは、
有名な人、尊敬を集める人なんて「テレビの中」にいるだけですから、雑多な(余計な)情報が入ってこなくて、

 

わたしもあなたも、

限られたコミュニティ内の相対的な立ち位置で
ある程度「満足」が得られたわけです。

知らないものは見えないわけですから。

 

 

誤解を恐れずにいえば、

つい50年前まで、

 

第3段階の『社会的欲求』がある程度満たされたら、人生は「上がり」だったのだと思います。

 

 

 

ところが、

 

情報化社会の進展により、人々のさまざまな欲求が『可視化』され、互いに『承認欲求』で競い合う様相になってきています。

 

そして、第5段階の『自己実現欲求』です。

 

 

 

 

 

夢をかなえる
・理想の生活を求める(それを実現する)
・自分の能力を生かして創造的活動を行う。

 

これらの欲求が、なかば「当然視」されるのは、わたしはちょっと危険な兆候だと思います。

 

 

テクノロジーの進歩で周りが見えすぎ、

私たちは「高次の欲求」に登ることを、どことなく強いられているのではないでしょうか?

 

 

わたしはお金の専門家ですが、

別に『夢』とか『ゴール』とか、なくても全然よいと思います。

 

 

ある程度のお金と、好きなモノと好きな場所に囲まれ、ある程度健康で過ごせて最終「死」を迎えられれば、それでOKではないでしょうか。

 

今日、明日の暮らしの中で
なにか些細なことでも面白味、楽しさを感じられる。

その連続がその人の『暮らし』である・・。

 

 

お金(の量)で幸せを求めるのは順序が逆です。

幸せを維持するのに、ある程度のお金が要るだけなのです。

 

カテゴリ:お金の摩訶不思議

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