100年ライフプラン, お金の摩訶不思議

貧しさの思い出とマズローの欲求5段階説

2021年11月11日

こんにちは。
投資信託クリニックの カン・チュンド です。

小学校3年のときのお話です。

 

その頃、
ゴールデンウイークを過ぎたあたりで『家庭訪問』がありました。

そう、先生が生徒の「自宅」までわざわざ訪ねてくる、あれです。

 

 

でも、わたしの家には「玄関」がありませんでした。

 

 

扉を開けると
広いコンクリートの土間が広がり、

右手に、ビニール素材を保管する大きな倉庫(木で作られた)がありました。

 

その手前に二槽式の洗濯機があって、
母はいつもそこで洗濯をし、
路地に洗濯物を干していました。

 

家庭訪問があると、
先生はそのコンクリートの土間のところで、母と話をすることになります。

 

私たち家族は「ビニール素材の会社」の二階で暮らしていました。
もともとは社宅だったところです。
三階には倉庫があり、時々ネズミが走っていました。

 

 

家の前の「路地」が舗装されたのはたしか小学5年のときで、それまでは雨が降るとすぐぬかるみになってしまう状態でした。

 

 

 

 

 

同じ路地にある友だちの家では犬を飼っていました(もちろん外で。)

犬は残飯以外食べていませんでした。

 

わたしの家のまわりは、
裁断の工場やミシンの作業所や内職の家が多く、いつも機械の音とラジオの音が聞こえていました。

典型的な下町ですね。

 

後年、高校に上がって「銭湯」に行ったことがない同級生がいて驚きました。

 

また、ほとんどの同級生の父親が「大卒」で仰天したのを覚えています(わたしの両親は共に中卒で、それが普通だと思っていたため。)

 

 

当時、担任の先生が『家庭訪問』に来て、
コンクリートの土間を見られるのが本当に恥ずかしかったのを覚えています。

 

 

が、それは換言すると、

「玄関」がある家に引っ越すだけで
幸せな気分になれるということでもあります。

 

 

話は急に変わりますが、

 

あなたは
マズローの「欲求5段階説」をご存じですか?

 

人間は「低位の欲求」が満たされると、
より「高位な欲求」に移っていくというものです。

 

 

 

 

 

第1段階や第2段階の欲求は、

お金うんぬん以前、
「生きる」を続ける根源的な欲求です。

 

『生理的欲求』(食べたい・寝たい)から、
第2段階の『安全欲求』

即ち安心・安全な暮らし(雨風をしのぐ家や、健康や、最低限のお金を確保)の移行には、
言い知れぬ「喜び」があるはずです。

 

 

実は人類の歴史の99.9%は
『第2段階』に到達するために費やされてきました。
1段階 ⇒ 2段階への移行の「欲求」は、太く刻まれた直線のように、普遍的かつストレートに(今も)存在します。

 

 

ところが、
第3段階『社会的欲求』に至るとどうでしょう?

 

 

 

 

 

〇 集団に属する
〇 仲間と会話する
〇 コミュニティに帰属している
⇒ そのことによって「一定の満足」を得ているという状態は、
現在、多くの人がすでに
第1段階、第2段階をクリアしているだけに、
その達成がより難しくなっているのかもしれません。

 

 

第3段階に至れば、
もちろんお金にもある程度「余裕」があることでしょう。

 

 

では「収入」がどんどん増えると、「幸せ感」も逓増を続けるかというと、
これがまたなかなか難しく、
一般に「年収800万円」のラインを超えると、
それ以上収入が増えても、
『幸福度』はあまり上がらないのだそう・・。

 

 

 

さらに今はSNSの時代です。

第4段階の『承認欲求』がクローズアップされます。

 

「他者から認められたい、尊敬されたい、有名になりたい。」というような欲求です。

 

 

 

 

 

むかしは、
有名な人、尊敬を集める人なんて「テレビの中」にいるだけですから、雑多な(余計な)情報が入ってこなくて、

 

わたしもあなたも、
限られたコミュニティ内の相対的な立ち位置で
ある程度「満足」ができていたわけです。

 

 

誤解を恐れずにいえば、

つい50年前まで、
第3段階の『社会的欲求』がある程度満たされたら、人生は「上がり」だったのでしょう。

 

 

ところが、

情報化社会の進展により、人々のさまざまな欲求が『可視化』され、互いに『承認欲求』で競い合う様相になってきています。

 

そして、第5段階の『自己実現欲求』です。

 

 

 

 

 

すなわち、夢をかなえる
理想の生活を求める(それを実現する)
自分の能力を生かして創造的活動を行う。

 

これらの欲求が、なかば「当然視」されるのは、わたしはちょっと危険な兆候だと思います。

 

 

 

 

これはあくまで私見ですが、
私たちは「高次の欲求」に登ることを、どことなく強いられているような気がするのです・・。

 

 

「夢をかなえる」、素敵なことだと思います。

でも、

別に『夢』なんてなくてもよいではないですか。

 

「ゴール」とか「人生の目標」とか、一FPとして安易に口にしがちですが、

正直、一個人としてのわたしは、ちょっと胡散臭さを感じます。

 

 

「やりたいこと。」⇒「できるだけしよう!」
それだけで良いのでは・・。

 

あなたはどう思われますか?

 

 

今日、明日の暮らしの中で
なにか些細なことでも面白味、楽しさを感じられる。

そして、その連続が人の『暮らし』である・・。

 

 

 

 

 

最後に、

人生の中で
貧しさを経験することは、

人間の欲求の「原始」近くを知ることであり、
また、満足の『間口』を広く持てるという意味で有益だと思います。

 

ほんらい、明石家さんまさんではないですが、
『生きてるだけで丸儲け』なのです。

そこがすべての原点です。

カテゴリ:100年ライフプラン, お金の摩訶不思議

おすすめの記事