お金の摩訶不思議

お金を増やすのはサイエンス、お金を使うのはアート?

2020年9月19日


こんにちは。
投資信託クリニックの カン・チュンド です。

お金がない人は、
「お金さえあれば人生が変わるのに・・」と呟きます。

お金がある人は、
「お金があっても結局人生って変わらないのね」と囁きます。

どちらが真実かといえば、どちらも真実です。


前者は、お金を見上げて
お金に過剰な「期待」を寄せています。

後者は、お金を見つめて
お金の本性を「客観視」しています。

お金は、その人が居る状況によって違う顔を見せるものです。

 


たとえば、です。
今、あなたの手元に10億円のお金があっても、

あなた個人の
除き切れない『心の空白』はあり続けるでしょう。

人の「満足」「充足」は数字では計り切れないものですから。

その一方で、お金が
人が生きる『可能性』を押し広げてくれることも、また事実です。


私たちはときに忘れてしまいがちですが、
今の世の中には、豊かになれる自由があります。

人が上昇志向の中にいれば、
自然、お金に対する『思い入れ』は強くなります。

お金に対する関心が高くなると、
お金の利殖法についての情報も増えてきます。

 




「昭和」がまさにそうですが、
お金を積み上げること自体が「ひとつのステイタス」でした。

その頃は、お金の使い方もまさに「直線的」。
豪華な家。海外旅行。洒落たクルマに、ブランド物の装飾品を持つ。

では、もっともっと遠い昔はどうでしょう?


たとえば江戸時代は典型的な「身分社会」であり、
豊かになる自由はかなり制限されていました。

当然、得られるお金も
その活かし方も限られていましたが、

人は「粋(いき)」や「張り」といった
独自のメンタリティーをもって生きる糧としていたのです。

(ある意味「意気地」が「儲け」に勝っていたとも云えます。)


レイモンド・チャンドラーの小説に
「ロング・グッドバイ」(村上春樹 訳)がありますが、

 



その中で
テリー・レノックスが次のようなセリフを吐きます。

「僕は金持ちなんだぜ。その上幸福になる必要がどこにある。」


フム。どこか自虐的です。
(ひと昔前の感覚、でしょうか・・)


あなたなら、
わたしの言わんとすることを
理解していただけると思いますが、

21世紀において、『資産』がそこそこあって、
でもふつうに『幸せ』を享受できる。

もちろん、これはぜんぜん可能であり、
別に特別な望みでもありません。



江戸の時代からも、先ほどの昭和の時代からも時は流れ、
お金を増やす方法論も少しずつ洗練されてきました。

その成果のひとつとして、
「インデックス投資」の普及があるとわたしは思っています。

では、お金の使い方はどうでしょう?


果たして色とりどりに『多様化』してきているでしょうか?


お金を増やす方法論は「定量」で評価できます。

お金そのものには色も感情もなく、
きわめて普遍的に「数字」や「」として
そこに書けるわけです。

ところが、お金の使い方は・・
(衣食住の基礎を除けば)きわめて個性的。
「定性的」なのです。

 



 

このブログを読んでいるあなたは、
今はお金のパイを大きくすることで精一杯なのかもしれません。

しかし、遅かれ早かれ、
増やしたあとのお金を『どう使うか』という命題に、
向き合わなければなりません。

そこに「数字としての答え」はありません。

また、「直線的な」お金の使い方には
あなたはそんなに興味が湧かないだろうと推察します。

では・・と言われても、わたしも明確な答えを持っているわけではありません。

『お金をどう使うか』という命題は、
「お金を増やすこと」より何倍も難しく、
かつその人の「個性」が如実に現れるものだとわたしは思います。


カテゴリ:お金の摩訶不思議

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