お金を稼ぐこと → 何かを犠牲にすること?
2024年12月4日
こんにちは。
投資信託クリニックの カン・チュンド です。
むかし京浜東北線の東十条行きに乗ったことがあります。
それは、東十条行きではなく大宮行きだったのですが、車両内でわたしが立っている目の前に『二人のサラリーマン』が座っていて、
右側のちょっと太めのおじさんが、
ため息混じりに近況を隣りの同僚に話しているという構図でした(夜9時過ぎのことです)。
このまえ家に帰ったら、リビングの間取りが変わってたの。なんていうの、バリ島のリゾート仕様みたいな椅子とテーブルに。
オレが座ってたソファがなくなってて、一瞬なにこれ?と思っちゃったよ。
わたしの目の前に座るこの人は、おそらく単身赴任中なのでしょう。
でさ、上の娘が来年高校卒業で
「卒業式は必ず出るから」って言ったら、
「別に無理しなくていいよ」と、さらっと言われちゃった。
なんだか辛そうです。
もうこの卒業式逃したら、
おれの存在消えると思ったから「絶対出る」って言ってやったよ。
それから目の前の二人は、
仙台の子会社の清算や人事考課の話や、持ち株会の掛け金の話に及んでいました。
お前、あれだよ。自分のことATMって思ったことない?
いや、そこまで思ったコトないけど。
オレはあるよ。
つごう6年の単身赴任で、お金はそれなりに増えたけどやっぱり犠牲は大きいね。もしほかに選択肢があったらオレは絶対やってない。
(誰にとっても)お金を稼ぐのは難しいことです。
といいますか、お金を多く稼ぐためには(そのぶん)自由や余裕を犠牲にしなくてはならない・・、それって辛く過酷なことかもしれません。
わたしは京浜東北線の列車の中で、
サラリーマンの話を耳にしながら、
かつて放浪しタイのバンコクに滞在していたことを思い出しました。
わたしは24歳時に、
3ヶ月以上タイのバンコクに滞在していました。
当時「カオサンストリート」と呼ばれるバックパッカー御用達の安宿街がありました。
お金はないけれど、時間はあり余っている状態で、わたしはカオサンにたむろする外国人観光客に交じって昼からビールばかり飲んでいました。
そのうち日本から来たノンさんと知り合いになりました(本名は知りません)。
ノンさんは長らく大宮でお店(夜の店。バー?)をやっていて、そこを畳んで長めの旅に出た途上でした。
端正だった顔立ちが伸ばし始めた髪や髭によって、世間から距離を置きつつある人。という風貌に変わっていったノンさん。
夜の仕事って、キツいですよね。
きつかったね。相手はキチガイだからね。
酒が入ると人間は別人になる。感情の起伏が増して、笑い声も怒鳴り声も(そして泣き声も)みんな倍になるんだ。とノンさんは言っていました。
人が寝てる間にあくせく働いて、ひと財産作ったけど、腰も膝も首もおかしくなっちゃって、
自分が消耗した分量と、稼いだカネを比べたら、割に合わないって感じかな。
(ノンさんはその後、バンコクの日本人御用達の飲み屋街でカラオケ店を開いたのだそう)。
誰にとってもお金を稼ぐことは必要です。
(それは生きる糧ですから)
しかし、ふと振り返ったときに、「これほどお金を稼がないとダメなの?」という根本理由を、自らに問い直してみてもいいかもしれません。
稼ぐ分量は、使う分量によって半自動的に「自身で」決めていたりしますから。
人は今の肩書きや、職業や、世の中での評判や、クルマや持ち家やスマホに執着しますが、
天変地異が起こり、ただその環境に必死に適応していくことになれば、何もなくても生きられるのがこれまた人です。
一度考えてみたい宿題ではあります。
カテゴリ:お金の摩訶不思議