花にも人にも「枯れる」美学あり
2024年11月5日
こんにちは。
投資信託クリニックの カン・チュンド です。
まずはポエムからどうぞ。
・・・・・・・・・・
ワタシ、花です。
どこにでも咲いている花です。
もうずいぶん長く、この河原沿いで咲いています。
四季というのですか、
さまざまな季節の移り変わりをもう三周くらい経験しています。
ところで、こんなワタシにも
多くの人に注目される時期がありました。
それはワタシが蕾から、大きく花開き、
遠くから見ても「ああ、花が咲いてるよ、キレイだね」と認知された時です。
それはワタシの黄金時代でした。
ワタシの背丈はどんどん伸び、茎にも葉にも生命力が漲り、花が目一杯開ききって、ワタシ自身の大きさが最大になりました。
わざわざ遠くからワタシの傍まで来て、
写真を撮る人さえ続出しました。
ワタシはとても嬉しかったです。
でも、誰の目にも艶やかで眩い「花が見開いた時」はあっという間に過ぎて、やがてワタシは徐々に萎れ始めました。
ボリュームがなくなり、
色も少し黒ずんで、
花自体の重さでワタシ(茎)も曲がってきて、
見た目には、腰が曲がった人を想起させるくらいになっています。
今、ワタシのことをわざわざ見に来る人はいません。
遠くから、
「ああ、あの花、萎れかけているね」という呟きが聞こえるくらい。
・・・ここから『本題』・・・
花は「大きく開いているとき」だけが 花 ではありません。
萎んで、
花びらの一つひとつがその活力を失う過程でも、立派に生きています。
完全に朽ちてしまうまでの月日、徐々に枯れゆく姿もまた生命の一現象であり、これはこれで「いとおかし」と感じてなんら不思議はありません。
わたしは来年57歳になるのですが、
―膝も腰も痛いのですが、―
老いることはそれほど悪いことではないと思っています。
なぜなら、
人は老いてはじめて、
「大きく花開いていた時期」も、
「花が萎み枯れていく時期」も、
両方を、
まるでマルチスコープのように確認できるようになるためです。
もちろん、
私たちは「花」ではなく「人間」なので、
外部環境的にも
内部の身体的にも
本物の「花」よりずっと程よくケアして、長持ちさせることが出来ます。
―もしもあなた自身が望めば、―
60歳なら60歳なりに、
70歳なら70歳なりに、
萎み、枯れゆく中で、
いかに自分自身に
あるいは他者にアピールできるのか・・。
これはこれで、結構チャレンジングな試みだと思いませんか?
残りの人生時間、
それも健康に動けたり、考えられたりできる「健康時間」として考えると、
どうしようかな?
と悩んでいる暇はないわけです。
お金はもちろん大事ですが、
ある程度生活の目処が立っているなら、
(この先)あれこれどれくらい「実体験」ができるのか、
経験を重ねてそれを「思い出」としてストックできるのか、
『実行』と『残された時間』との間で、苛烈なるデッドヒートを繰り広げる必要があるのでは?
わたし自身、カウンセリングの仕事をもちろん頑張りますが、残り時間での『アウトプット』という意味ではYouTubeライブと、noteにおけるコラム執筆も、
これまでのエッセンスを絞り出すよう尽力していきたいと思っています。
茎が細り、躯体も曲がって、
(これから先)花びらはまた1枚、2枚と落ちていくかもしれませんが、
華麗に咲く花だけでなく、枯れていく花にも根太い美しさがあります。
これも年を重ねて(はじめて)実感できることなのです。
カテゴリ:100年ライフプラン