お金の摩訶不思議

お金は座布団?

2024年5月13日

 

こんにちは。
投資信託クリニックの カン・チュンド です。

冷めた目で自身を顧みると、
少々変わった仕事をしていると感じます。

 

何しろ、
毎日のように人様のお金の内容を拝見するわけです。

 

資産の中身に対して、

ここはこうしたほうが・・
これよりもあれに入れ換えたほうが・・と
アドバイスしたりします。

(しかもオンライン上で。)

 

 

 

 

 

こういう仕事が成り立つのも、
お金の『優先順位』が高い世の中であるためでしょう。

 

よい・悪いは別として、

こんにち、
お金・経済・資本は大きな力を持っており、

私たちの生活の有り様を
おおまか規定してしまっています。

 

お金・経済の、
磁場のような「影響力」から無縁でいることは(実際的に)ほとんど不可能なのでは?

 

 

個人ベースでいえば、

・お金をいくら稼いでいるか。
・お金(資産)をいくら所持しているか。

これらが暗黙のうちに
社会的ステイタスを形成し、

 

人生において
上手くいっているか・いっていないかの、『目安』にされている感は否めません。

 

 

 

 

 

世の中の側から見ると、

 

お金の多寡によって、
手っ取り早く
一人ひとりの人間を区分けしている(ラベリングしている)社会・・
という解釈にもなります。

 

 

お金が、すべてなのでしょうか?

 

 

そう問われれば、

「いや、それは違うね」

と答える人は多いでしょう。

 

 

むかしから
金持ちの人もいれば、貧乏な人もいました。

 

金持ちは金持ちなりに、
貧乏な人は貧乏な人なりに、暮らしを続けてきました。

 

 

 

 

 

わたしは
どちらかというと貧しい家の出ですが、

 

・箸はこう持ちなさい
・嘘をついてはダメ
・ものをもらったら「ありがとう」と言いなさい

など、

暮らしの規範みたいなことは、
口酸っぱく言われた記憶があります。

 

 

貧乏な人は貧乏な人なりに、
精神性を育みながら、
暮らしの中で工夫をこらし生きていく。

そういう気概があったように思います。

 

そもそも昔は
金持ちの人と貧乏な人は
あまり交わることがなかったため、

互いを否定し合ったり、ということも少なかったのではないでしょうか。

 

しかし今は
IT技術が社会を席巻し、
互いが『可視化』されています。

 

 

 

 

 

互いを「知り」
「見せる」「見られる」の関係になっているのです。

 

 

今から申し上げる部分は
わたしが間違っているかもしれません。

 

が、
個人的には、

 

市民社会において、

互いが互いを近くで
『可視化』できる状況になってしまったために、

 

かえって
それぞれの場所で、
それぞれの境遇の人がそれなりの『矜持』を持つという「多様性」が振り落とされ、

 

 

万人の暮らしが、
お金・経済という
『単一の価値観』に支配されるような状況に近くなっている・・・。

 

そういう危惧を抱くのです。

 

 

お金を(多く)持つことが悪い。

という意味では決してありません。

 

 

 

 

 

お金を稼ぎながら、
お金を所持しながら、

お金・経済以外の、

精神性をもって暮らすという『部分』の確保は、たいへん重要だと感じます。

 

もちろん、

 

『豊かな精神性を保って生きるために、それなりのお金が必要なのだ。』という指摘も、ごもっともだと思います。

 

 

 

わたしがここで強調したいのは、
お金というものに対して持つ『矜持』の重要性です。

 

 

ちょっと下町ことばで言いますと、

 

おいらは稼いで、お金も持ってるけど、カネには振り回されていないぜ。という 矜持 です。

 

 

お金とは、座布団のようなものだと思います。

 

 

 

ある程度「ある」と、

ふんわりしてて心地よくて、
座布団を二枚、三枚重ねると、見晴らしもよくなって気持ちのよいものです。

 

しかし、

座布団を十枚、二十枚重ねることで、
自分がより心地よくなるのかといえば・・・、

 

ここはよく分かりません。

 

一人ひとりに適した座布団(お金)の量って、けっこう違っているのでは?と感じる今日この頃です。

 

 

 

 

カテゴリ:お金の摩訶不思議

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