写真と絵画とヒトの進化について
2023年1月7日
こんにちは。
投資信託クリニックの カン・チュンド です。
今日は投資とは関係のないお話です。
これから『絵画』についてお話ししますが、
どうかココで離脱しないでください(笑)
脳がマッサージされる効果があるのをご存じですか?
具体的には、
絵画鑑賞には
物事を「俯瞰」できる効果があると言われています。
(俗にいう右脳の活性化です。)
少し、興味が湧いてきましたか。
ところで、
今日の「絵画」は「カメラ」と深い関係にあります。
カメラという道具は
1850年代に普及し始めました。
『写真』はその名の通り、
ものの有り様を写し取ってそのまま残せる、画期的な発明でした。
「カメラ」が登場したことで、文化として根付いていた「絵」の役割は、9割がた無くなる運命だったのです。
そもそも、
「絵画」の原型ってどんなものだったのでしょう。
私たちの祖先は
何万年にもわたって
「すばらしい風景」を見て感動してきましたが、
残念ながら、
その景色を瞬間冷凍パックのように
残す術(すべ)を持ち合わせていませんでした。
ヒトの衝動として、
景色や、同じ人の姿や、動物や植物たちを、
今まさに見えているまま「カタチ」として残したい・・
そして、
それを誰かに伝えたい・・。
人が「絵」を描き始めた「きっかけ」だったのでは・・。
歴史時間の99.9%において、
「絵」は物事のあり様を伝える伝承手段だったのです。
すなわち、
カメラがない時代の「絵」は、
私たちの想像以上に人の暮らしの中で『重要な存在』だったということ。
(時代、時代の考証物として機能していたと云えるでしょう)
しかし、
19世紀に「カメラ」が登場すると、
「絵」の役割は根底から揺さぶられました。
『画家』はその時とつぜん、
「さて、私たちはどんな絵を描くべきなのか?」という命題を、突きつけられます。
絵なんてもう、世間の隅に追いやられるよ。」
やはり、『ピンチはピンチ』。
(あなたはどう思われますか?)
しかし他方では、
歓喜する『画家』も居たとわたしは思うのです。
やったぜ!
これで絵はようやく、
写実という束縛から解放される!
『ピンチはチャンス』?
ご承知のとおり、
19世紀後半から20世紀初頭にかけて、
「絵」の世界では数々の革新者が登場します。
※いわゆる「印象派」と呼ばれる人たちがその代表格ですね。
上記のような歴史的背景があったからなのです。
「絵」を再定義せよ。
という時代からの無言の要請です。
この『再定義』に、
果敢に挑んだ画家の一人が、
19世紀末から20世紀にかけて活動したポール・ゴーギャンです。
具体例を挙げてみましょう。
《ファタタ・テ・ミティ(海辺で)》1892年
なんだか、
夢の中の、幻想風景のようです。
細かい線も存在せず、立体を生む工夫も見当たりません。
わたしが昔読んだゴーギャンの画集には、次のような解説がありました。
○ 自然の再現というより、解釈を
○ 一部の描写より、全体の暗示を
つまりゴーギャンの絵は、
『象徴であり、解釈であり、暗示である』と喝破しているのです。
象徴であり、
解釈であり、
暗示のような『絵』ですから、
「なんかよく分かんない・・」「難解だなぁ・・」と感じて当然でしょう。
ゴーギャンは、
『自然の再現ではなく、解釈の提示を』
という命題を自らに課していたはずです。
そして、それこそが
今後の、絵画の「生きる道」と確信していたのです。
写実である旧来の絵から離れ、
独り革新を模索する彼の姿は、
まさに旧来の絵を解体し、
絵を再定義しようとする試みであり、氏はそのスタイルを築くために、生涯奮闘し続けたのです。
これまでの「延長」上では
これ以上進むことはとても無理だ。
そう思える状況から、
物事の進化を試み、
実際に発展させてきたのが私たち先人の歴史です。
それは芸術でも、
経済の営みでも、
同じことではないでしょうか。
人はいつも新たなスタートラインを引いてきたのです。
(これからだって、もちろん引けます。)
あなたが暮らしの中で苦境に陥ったとき、
あるいは資産運用の中で悩みの沼にはまったとき、こう思ってみませんか?
何度も何度も『新たなスタートライン』を引いてきた、
私たち先人たちのDNAなのだ。と。
年頭なので、ちょっと大仰な話になってしまいました(^^)
最後に、絵にちょっとだけ興味が湧いたよ。という首都圏にお住いのあなた。
わたしのお勧めは上野にある
『国立西洋美術館』です。
特別展に行く必要はありません。
常設展だけでも、実に多彩な、歴史を跨いだ絵画と出会うことが出来ます(観覧料は500円!)
1月23日より2ヶ月近く閉館予定のため、お早めに!
カテゴリ:その他・雑記